笑いについて考える

不登校とお笑い

不登校とお笑い

不登校やひきこもりで悩んでいるひとにおすすめしたいのが「お笑い」を観ること。

僕自身、不登校だった学生時代の一時期、食い入るようにお笑い番組を観た。

>>元ひきこもりのお笑い芸人たち

たとえば、『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『内村プロデュース』『恋のから騒ぎ』『ナイナイサイズ』『ぷっすま』『ロンドンハーツ』。

テレビのバラエティ番組はもちろん、ナイナイやロンブーなどお笑い芸人がパーソナリティを務めるラジオも毎週聴いていた。

夜ひとりで聴くラジオは自分にとって唯一と言っていいくらいの隠れ家だった。

好きな芸人さんのネタはビデオに録画して繰り返し観た。『爆笑オンエアバトル第5回チャンピオン大会(2003年)』のチュートリアルのコント「おはぎんぐ」と、チャイルドマシーンの「ラクダと山本のラブストーリー」という漫才に至っては一週間で10回以上は観たと思う。

特に、チュートリアルの「おはぎんぐ」は、すでに完全に「チュートリアル」らしさ全開で、くすぐったいくらいに笑った。

画像 : 爆笑オンエアバトル第五回チャンピオン大会結果

お笑いが、10代の僕の支えだった。不登校で、日々が何事もなく虚しく過ぎていった。

生きているのも辛かった時期だった。あの曜日に、あの番組がある、というのが、当時の僕にとって生きるための重要な理由になっていた。

不登校や引きこもりの度合いも、きっかけや背景も人それぞれだから、一緒くたにはできないけど、少なくとも僕は、世間では「くだらない」と言われるかもしれない「お笑い」に救われた。

その頃の僕は、一部の幼馴染や家族以外、ほとんど誰とも話せなかった。カウンセリングに通っても、一時間一言も喋らずお金だけ渡して帰ったこともあった。

だんだんと話し方も忘れていった。

その日々は5年近く続いた。「お笑い」は僕に今週も生きる理由と、「面白い」という感情を与え、そして(これはあとで判明することだが)話し方を教えてくれた。

笑いの健康に関する効果というのは、割と有名だと思う。心や体に効果的なのも確かに分かる気がする。

だから、そういう意味で、お笑いを見るのがよい、というのはその通りだと思う。

また、「話し方」が自然と身に付く、という効果についても、僕はのちに実感した。

お笑い芸人の「話し方」には特徴がある。彼らにとって話し方が「うまい」というのは、一つは「間合いの取り方」にある。

自分が喋っているときと相手が喋っているとき、引いたり詰めたり、という間合いが巧みで、話相手との阿吽の呼吸によって口調の強弱や表情も変える。

よく言われる「空気が読める」というのも、この感覚に近いのだと思う。

ひたすらお笑い芸人の動画に触れていたことで、たぶん、知らないうちに「間合い」の感覚のようなものが身についていったのかもしれない。

大学受験をきっかけに「学校」に戻り、バイトを始め、徐々に人に慣れていったときに、割と誰とでも普通に話せるようになっている自分を発見した。

引きこもってお笑いや読書の世界に閉じこもっている期間を経て、その前後で確かに変化していた。

スポーツの世界で名選手の動画を繰り返し見ることによって「イメージトレーニング」を行うのと同じようなものなのかもしれない。

また、会話の際の間合いの取り方だけでなく、ある話題について伝える際にどういう風に話すか、ということについても、主に芸人のラジオで学んだ。

ラジオで「最近あった面白いこと」を話すときに、芸人さんたち(芸人以外のパーソナリティも含め)が大切にしているのは、「映像を想起させる」こと。リスナーに映像を思い描かせることだ。

追体験させ、「笑わせる」というより、思わず笑ってしまうように持っていくこと。

これは、俳句と似ている。

松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」というのは、目の前に情景を想起させ、相手の脳内で「ぽちゃん」という音が響き、感情に染み入るようにする。

お笑いのトークも、同じような技術を要する。もちろん、そのときはこうしたことは分かっていないし、ただただ「面白い」と思って深夜ラジオを聴いていた。

また、コミュニケーション時の間合いの取り方や、話す際に映像を描こうとする志向性以外に、もう一つ、僕がお笑いで学んだことは、世界を「お笑いフィルター」で見るということ。

この世界は、様々なフィルターで見ることができる。たとえば、「経済フィルター」がある。「文学フィルター」もある。

同じ現象でも、「経済フィルター」で見れば、どうやってビジネスになるか、といった点で見るだろうし、「文学フィルター」なら、懐かしさや美しさ、共感などといった角度から受け取り、その光景や事象に心が惹かれるかもしれない。

ある一つの現象は、様々なフィルターで複層的に見ることができる。

そして、その一つに「お笑いフィルター」もある。

チャップリンの有名な名言にあるように、この世界には、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」という側面がある。

的確なツッコミひとつで強張った悲しみがふっと緩んで緩和されることもある。

お笑いを見ることで、「お笑いで見ること」が与えられる。そしてまた、自分自身で笑いに変えていくたくましさも身に付く。

>>霜降り明星せいやの高校時代のいじめ

夏目漱石の小説『草枕』には、俳句を例にして、詩人の有様について主人公の画家が語っているシーンがある。

ここで語られることは、そのまま「笑いにする」ことにも当てはまると思う。

詩人とは自分の屍骸しがいを、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。

十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。

十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。

まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。

腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。

ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字にまとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離ゆうりして、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。

出典 : 夏目漱石『草枕』

悲劇を俯瞰し、笑いに変えることも、この『草枕』の主人公が語っている詩作の効用と同じことが言える。

よく芸人さんが「笑わせるのはいいが、笑われるのは嫌だ」と言う。

笑われるというのは、自分の運命を相手側に全て委ねている。コンプレックスも相手のコントロール下にある。

しかし、「笑わせる」となれば、自分のコンプレックスも、場の空気も、意思によって変えられる存在になる。「苦しみの涙は自分から遊離して、おれは“笑う”事のできる男だと云う嬉しさだけの自分になる」。

以上のように、お笑いには、笑うことの心理的ないしは健康的な効果だけでなく、多くの(能動的に「笑う」ための)重要な要素が詰まっている。

不登校のとき、たくさん音楽を聞き、たくさんお笑いを観たことは、ほんとうに今に活きている。

今、不登校で悩んでいる子供たちも、思いっきり休んで、自分がほんとうに好きだと思えるものにどっぷり浸かってみるのもよいと思う。

その一つに、よかったら「お笑い」も、どうぞ。

ハイスクールマンザイ

ハイスクールマンザイは、2009年から行われている高校生のお笑いチャンピオンを決める大会。よしもとクリエイティブ・エージェンシー主催で、通称「H-1甲子園」。2008年までは「全国高等学校お笑い選手権 M-1甲子園」という大会だったが、2009年にリニューアル。第一回大会の決勝進出者には、現霜降り明星の粗品がいる(「スペード」というコンビで出場)。

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